『三国志』の著者、陳寿が故郷の「蜀」に込めた思いとは?
ここからはじめる! 三国志入門 第120回
■祖国への思いを込めた、巧みなカモフラージュ

陳寿が生まれ、学問に励んだと伝わる地。四川省南充市には顕彰施設「万巻楼」や、師・譙周の廟や墓がある(撮影/上永哲矢)
陳寿は晋の政治家という立場から『三国志』を制作したため、晋の前身である「魏」を正当な国家として綴った。そのために『魏志』がもっとも長くてボリュームがあり、反面『蜀志』は一番短い。
しかし、陳寿自身はやはり「蜀」に対する思いが強かったようだ。魏の曹操を「武帝」、曹丕を「文帝」と尊称する一方、祖国・蜀の劉備は「先主」、劉禅を「後主」とした。(呉は孫堅も孫権も呼び捨てている。)
また、目を引くのが『蜀志』の最後にある楊戯(ようぎ)の伝記に続け、楊戯が蜀の君臣を讃えた『季漢輔臣賛』(きかんほしんさん)を入れたことである。これに、陳寿はみずから加筆して思いを込めている(「季漢」とは蜀=蜀漢のこと)。
劉備に始まり、諸葛亮・関羽・張飛・馬超・法正ら50名以上に及ぶ蜀の君臣たちを賛ずる内容は『蜀志』の締めくくりにふさわしい。「昭烈皇帝(劉備)を賛(たた)う」などの文言は、楊戯の伝記を介した陳寿自身の思いにも感じられる。
■「諸葛亮批判」は、あたらない?
なお、陳寿が諸葛亮を「臨機応変の軍略は得手ではなかったからであろうか」と批判したことがよく話題にされる。父親が罰を受けた恨みともいわれたりするが、よく読めば政治政策、その忠義を極めて高く評価しており決して貶める内容ではない。蜀を裏切った潘濬(はんしゅん)なども蜀側と呉側両面からの評を載せており、やはり公平な人だったといえるだろう。
『三国志』は晋帝・司馬炎の代に高く評価され、2代目の司馬衷は国家公認とした。「晋」という国家の成立した事情からも、前国家の記録を『魏書』より『三国書(志)』としたほうが都合もいい。その存在が、晋の繁栄を妨げるものではないと判断されたのだろう。ただ正式な史書(正史)と認定されたのは陳寿の没後300年ほど後、唐の時代のこととなる。
なお、当時の倭国(日本)にあった邪馬台国や、倭国女王・卑弥呼のことを記した『魏志』倭人伝が読めるのも、陳寿が『三国志』に収めたおかげであることも加えておきたい。
晩年、陳寿はさぞ名声を極めたかと思いきや、またも不遇の身に落ちた。母を郷里の墳墓に葬らず、遺言にしたがって洛陽へ埋葬したことで、彼に「親不孝者」のレッテルが張られたのである。
これが原因で、陳寿は在野に落ち、297年に65歳で没した。官を解かれて数年後に許されたが拝命せず、みずから在野のままでいたとも伝わる(『華陽国志』では復命するも2年後に没したとされる)。
譙周は生前、陳寿に「君は必ず学才をもって名を成すであろう。不幸にして挫折も味わうだろうから、慎重に振る舞いなさい。」と予言していた。まさに、陳寿の生涯と名声はその遺言どおりになった。
陳寿という人は、政治的な立ち回りには疎く、出世にもあまり興味がなかったと思われる。親不孝者の誹りや左遷にさしたる動揺もなかったようだ。ストイックに史書の編纂に打ち込んだ文筆官僚の姿が記録からは浮かんでくる。
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